2013年3月31日日曜日

「健康を求める人は不健康な人」というお話

 「健康を求める人」は「不健康な人」なんです


※ 下のリンク先から、この記事を音声にて聴くことができます。 

   音声ファイル (12分40秒)  玄米屋たいぞうの想い84




え~、今の世の中、やたらと健康に気を遣っている人は少なくありません。


そうやって健康に気を遣って、健康を求めている人ってのはですねー、


じつは「自ら不健康に陥ってしまっている人」です。



そんな風に言われると、カチンとくるかもしれませんが、


・・・ですが、この事実を謙虚に受け容れることが出来るか?否か?によって、


あなたが真の健康を見出すことが出来るか?否か?が決まります。



ムカッときたかもしれませんが、ここをグッと堪えて、ぜひ最後までお読み下さい。



健康を求める人や、健康に気を遣うような人は、自分が今に感じていることを「健康ではない」と思っているからこそ、健康を求めているわけなんですが、

それってのはですね、じつは自分の心に「欠落意識」ってのが在るからこそ、何かと健康を求めてしまうことになっているんですね。


なお、「欠落意識」とは「被害者意識」とも言い換えられます。




今の自分が感じていることに不安を抱え、何かと健康に気を遣ってしまうような人は、ハッキリいって不健康な人なのです。


だって不安に怯えてしまってるんですから。


今の自分や、自分の見ている現象に「安心」「喜び」を見出すことができていないわけですから。


健康を求めている時点で、自らで自らを不健康に貶めてしまっているというわけですね。



僕もですねー、自分で自分を不健康に貶めていたということを、昨年の暮れになって、ようやく気づくことができました。


その時の心境を今年の始めに、玄米屋たいぞうの想いシリーズとして書いています。

玄米屋たいぞうの想い81 ( 2013年始まりの想い )



やたらと周りの人達の健康に気を遣う人や、健康オタクの人なども、同様に不健康な人です。


他者に向けて「健康が大事だ」とかナンとか主張するような人は、自分が不健康に陥ってしまっているということを、しっかりと認識した方が良いですね。





・・・え~、のっけからずいぶんと挑発的なコトを書きましたが、 僕はあなたが健康を求めることが「不健康」だとか、「悪いこと」だとか、そういうことを言っているワケではありませんので、どうか誤解の無いようお許しください。



ただ、あなたが本当に健康でありたい、自分や大切な人の健康を創造したい、と願うのであれば、


それが自分であるにしろ、他人であるにしろ、気を遣うのではなく、氣を配ることが大事だということを、僕は伝えたいんですね。



そして、健康とは求めるものではなく、見出すべきものです。


自分の中に、他者の中に、そして、あらゆる存在の中に、 健康を見出すことができる人こそが、真に健康な人だといえるのです。



「足るを知るものは富む」 という諺が示す通り、 今が健康で在ることを知る人や、今に健康を見出すことが出来る人こそが、ほんとうの健康を創造することができるんですね。



今に健康を見出せない人は、代わりに不健康を見出します。


自らに欠落意識や被害者意識があるために、 自分や他者や、あらゆる存在の中に「不健康」を見出してしまい、あれこれと健康に気を遣いながらも、自ら不健康を創造し続けてしまうのです。


そして残念ながら、そんな自分自身の在り様に気づくこともできないんですね。



真に健康な人ってのは、健康に気など遣いませんし、気を遣う必要もありません。


真に健康な人は、その健康な心と身体をもって、周囲に対して無意識に「氣」を配っています。



・・それってのは、例えば赤ちゃんの存在なんかが分かりやすいですね。


赤ちゃんは、ただ存在しているだけで、周りの人達に微笑みや活力を感じさせてくれます。


なぜなら、赤ちゃんという存在は、わざわざ意識などせずとも人を感動させる「氣」を周りに配っているからです。


赤ちゃんは放っておけばすぐに死んでしまうような弱い存在ですが、そのことに対して不健康だと思うような人はそうは居ないですよね?


つまり、客観的に肉体環境がどれほど不自由な状況にあったとしても、他者に対して活力を感じさせるような「氣」を配ることができる人は、健康であるというわけです。


意識などせずとも、自然と健康を創造することができるんです。


自然と他者がほっとかないんですよ。



赤ちゃんってのは、欠落意識や被害者意識など持ってはおりませんので、それってのは当然のことなんですね。


赤ちゃんに限らず、子供なんかも、ただ存在するだけで活力や元気を感じさせてくれるような健康な存在です。


・・・まぁ、子供だけでなく、本当はあらゆる全ての存在が健康な存在なんですけどね。



不健康な人ってのは、欠落意識や被害者意識に囚われているがために、自ら不健康へと陥ったり、自他に対して不健康を見出してしまっている、というだけのことなんです。



この話について、なかなか納得できない方も居られるとは思いますが、「健康」というものは意識一つでガラリと変わりますから。


まぁ、その意識の変革ってのが、そう簡単なことではないからこそ、巷では不健康な健康ブームが拡大し続けているんでしょうケドね。



例えばですよ、小学生の子供が健康に気をつけている姿をみて、あなたはそれを素晴らしいと思いますか?


成長真っ盛りのエネルギーに溢れる子供や若者が、健康に気を遣うなんてことは、僕に言わせれば可笑しい話です。


まだ小学生くらいの子どもが、健康に気を遣っている様子を見ていると、どれだけ不健康なセルフイメージを抱いてしまっているのか?


自分や他者や社会に対してどれだけ不安を抱えてしまっているのか?


僕は多少ながらも気の毒になってしまいます。


活力溢れる子供が、自分の未来に不健康や不安を見出してしまい、健康に気を遣っているなんてことは、まったくもってナンセンスなことですから。


それってのは周りの人達や、社会の情報に大きな影響を受けてしまっているからなんですね。


不安や不健康に陥っている大人達に、感化されてしまっているからこそ、子供までもが不安や不健康を見出してしまうワケです。


子どもの頃から不健康なセルフイメージをもってしまうということは、イコール欠落意識を抱いてしまうということです。


今の自分では駄目だとか、今のままでは足りていないという、被害者意識や消費者意識に囚われてしまっているということです。


そういう子供は、大人になっても、被害者意識や消費者意識に囚われながら、そうした意識があるがために、他人に対しても何かしらの欠落感を見出してしまうんですね。


そして、他者に対して「可哀想」などと決め付けたりして、他人を不健康に貶めてしまうんです。


それが自分の子どもであれば、世代を通じて不健康の連鎖を果たし続けることになるでしょう。


ですから、他人に対して不健康を見出してしまうような人は、まずは自分自身が不健康になってしまっていることを知るべきなのです。


そして、他人の健康を求めるのであれば、自分が勝手に不安になっているだけ、ということを理解し、自分の中に真の健康を見出す必要があるのです。



自分の不安を、社会や他人の生(せい)にしてしまっている様では、不健康の連鎖から逃れることは出来ません。


刹那の安心を得ることは出来るでしょうが、しかし自分の中の根本的な欠落感を解消しない限りは、いつまで経っても、次から次へと自他ともに、不健康を想像し続けてしまうんですよ。



余談ですが、先日、鯖江市の食育推進会議に委員として出席した際に、親子向けの食育イベントのスローガンとして「朝ごはんを食べよう」とか「健康に気をつけよう」といったような提案が、他の委員の方から出されました。


いくら健康や朝ごはんの習慣を大事にして欲しいとはいえ、児童に対してそんなスローガンを掲げたら、鯖江市民は一体どれだけ不健康なんだ?って感じですよね(笑)


ですから僕は「鯖江の健康 笑顔で朝ごはん」というスローガンを提案したところ、満場一致で受け入れられました。


別に自慢ではありませんが、ちょっぴり嬉しかったですね(笑)




・・・え~、脱線した話を元に戻しまして(笑)、不健康な人ってのはですね、 自分の不安を、他人に対して何らかのカタチで押し付けてしまうんですね。


そして、それによって他人もが不安になってしまいます。


以前に書いた記事 (久しぶりに怒りました。「治らない病気」って言葉に対して。) の中にある

『マイナスの人は他人をマイナスにもする』  ってのは、そのことを指しているわけです。



不安なる意識に囚われている人は、その自分の不安なる感情の、同調や共感を他人にも求めてしまうんですね。


それってのは無意識の行為です。


つまり自然の行為ですので、その人に決して悪気はありません。



ただ、風邪をひいている人に、好き好んでくっつこうとする人はあまり居ませんよね?


ですからプラスの人ってのは、マイナスの人といると自分もがマイナスになっちゃいますので、マイナスの人を避けるんですよねー。



・・・で、マイナスの人ってのは、何かと気を遣いながら、それによって生じた欠落感を埋めるために、健康を求めます。



つまり食や薬や医療などといった物質の消費や依存を求めます。



それらの消費や依存によって、刹那の満足は得られますが、根本的な意識が不健康を見出してしまうために、また余計な気を遣ってしまいます。


それによって再び欠落意識に見舞われてしまうわけです。



根本的な意識に不健康を見出してしまっている人は、消費や依存にしか自分の満足を見出せないんです。


欠落意識に際悩まされているために、氣を配ることができないんですね。


病気の人で、周囲の人達を元気にさせるような人は、あんまり居ないですよね?



自分や他人の健康を信じることができないために、人の健康を見出すことも、それを伝えることもできないわけです。



真に健康な人ってのはですねー、如何なる時も健康を見出していますので、周りに健康なる氣を配ることができます。


そうした人は健康な氣を配っているからこそ、益々健康になり、健康で在り続けることが出来るわけです。


ですから、もし健康を求めるのであれば、気を配ることのできる自分へと成長することが何より大事となります。


大体、気を遣うのは余計なお世話にもなりかねませんからね。



では、どうすれば「氣」を周りに配ることができるような人に成長できるのでしょうか?



そのためには先ずは欠落意識や被害者意識を理解し、それを解消することが必須となります。



そして「不安」や「不快」を、他の何かのせいにしてきた自分の生を、100%自分のせいとして取り戻すことによって、真の健康創造の道が拓き始めるのです。




この続きはまだまだ長い話となりますので、玄米屋のメールセミナー内にて行います。

玄米屋たいぞうのパラメディカルヘルスセミナー オージャの理 

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